公開
2018-07-24
執筆者
野嵜健秀(Seikana.orgサイト管理者)

「正かなづかひ」について

「戦前に存在した旧かなづかいとは違う『正かなづかい』などというトンデモな代物を、一部の異常人が『これが真正のかなづかいであるぞ!』と言って流布している、みんな注意しろ」等と、アンチの人が各地の掲示板やSNSで宣伝してまはつてゐる事実が判明しました。とんでもない言掛かりであり、或は誤解です。

そもそも「旧かなづかい」と違ふのは「新かなづかい」であり、我々はその「新かなづかい」と云ふ固定された規範に反対する立場の者です。

「新かなづかい」を主張する人々が「言葉は変化するものである」と言つてゐますが、我々の立場もその点、彼らと全く変りがありません。言葉は生きてゐるのであり、常に変化し続けてゐるものであります――が、言葉が変化するものであるならば、なぜ「新かなづかい」なる規範を作つて、言葉の変化に抗ふのでせうか。言葉の変化を認めるならば、固定された規範を作つてはならない、と云ふ事は自明です。

固定された規範である「新かなづかい」が作られた事によつて、日本語の正常な変化は阻害された、と我々は考へます。

我々は「言葉の変化は自然に任せるべきである」と考へ、戦後に行はれた人為的な国語の改変である「国語改革」に反対し、「当用漢字」「現代かなづかい」/「常用漢字」「現代仮名遣い」に反対してゐます。我々は戦前に使はれてゐた国語が、自然に発展・変化すべきであつた、と考へてゐます。

残念ながら、「国語改革」によつて、日本語の自然な発展は阻害され、日本語の歴史的な連続は破壊されてしまひました。しかし、人為的に破壊されたものが人間の手で修復されてはならない理由もありません。だからこそ、我々は、戦前の自然な国語のありやうに復帰する事を主張します。

「国語改革」の推進派の人々は、新しい日本語こそ真正の日本語であると信じ、新しい漢字・新しいかなづかいこそ真正の漢字・真正のかなづかいであると信じてゐます。彼らは古い日本語は古いがゆゑに、最早、真正の日本語ではない、と極附けてゐます。だから彼らは「新漢字」「新かなづかい」と言ひ、それに対して従来の漢字・かなづかひを「旧漢字」「旧かなづかい」とレッテルを貼りました。「従来の漢字・かなづかいは古いものになってしまったので、とっとと新しい漢字・新しいかなづかいに移行せよ」と脅迫したのです。しかし、「新しい漢字」「新しいかなづかい」は、固定された規範であり、変化すべき言葉を固定するものです。

我々は、固定的な規範である「新漢字」「新かなづかい」に固執する事なく、日本人が自由に日本語を使ひ、自然な形で日本語を発展させるべき事を主張してゐます。そのため、「新漢字」「新かなづかい」を拒否し、正しい日本語の伝統に復帰すべきであると主張してゐるわけです。

我々の主張する「正かなづかひ」とは、「固定された規範」ではありません。だから、アンチ旧かなの人々が言ふやうな「旧かなづかいとは違う正かなづかひという規範」等、我々は全く考へてもゐないのです。そもそも、歴史的かなづかひと言つてゐるのであり、これはかなづかひを固定的なものと考へず、歴史的に変遷する流動的なものと看做した言ひ方であります。日本語は、過去の歴史の中で、自由に変化し、自然に発展してきました。かなづかひも、過去の歴史の中で、自由に変化し、自然に発展してきたものです。その自由な変化・自然な発展のありやうを全て、全体として実態として認めて、正かなづかひと呼んでゐます。

だから、「国語改革」で日本語の連続が破壊されたその直前、昭和二十年前後の日本語のありやうを引き継いで、そこから、その後の現実の歴史の中で出来した現代の日本の状況をかんがみて、「国語改革」なかりせばあり得たであらう日本語を、意識的に再構築し・再構成し、あらためて日本語を再出発させようと、我々は試みてゐるのです。

歴史的かなづかひにしても正かなづかひにしても、或は「旧かなづかい」にしても、記号として指示する内容に違ひはありません。そこにわざわざアンチの人々が違ひを「作った」のは、アンチの人々にとつて都合のいい「事実」をでつち上げるためでした。ただ、アンチの人々には情状酌量の余地はあります。彼らは「具体的な形のあるもの」しか認識できないので、「かなづかい」と言へば固定された規範の事だとしか考へられないのです。だから、歴史的かなづかひに固定された規範がないのが彼らには憎むべき事実に見え、「現代仮名遣い」と云ふ固定された規範がある現代の社会で彼らは安心してゐるのです。そこに我々が、言葉は変化し続けるものである、と言つて、流動的なかなづかひの伝統それ自体の護持を主張して活動してゐるのが、彼らには不気味なものに見えてしまつた。たしかに、我々の言ふ「正かなづかひ」が「わかりにくい」概念である事は否定しません。

しかし、この程度の事は、先進国の住人であるところの日本人なら、苦もなく理解していただきたい事なのであります。具体的な「規範」と云ふモノならそこに「ある」のがわかるけれども、抽象的な伝統と云ふ概念だと「ある」のがわからないとは、さすがに知的能力を疑ひます。

最初に述べた旧かなアンチの人物――掲示板やSNSで「旧かな使用者」に対するヘイトの文句を吐きまくり、アンチ行為を繰返してゐる人物――は、野嵜個人に二十世紀のうちから・二十年も粘着し続けてゐる人物です。彼/彼女は、野嵜を「ネトウヨ」と極附け・非難すべきターゲットであると信じてアンチの活動を繰返してゐます。即ちこのアンチ旧かなの人物は左翼であり、「唯物的」にしか物事を認識できない人間であるわけですが、その手の人間は物事を認識する能力に欠陥をかかへてゐるものであり、常人とは異つた世界のとらへ方をしてゐるものですが、さうした事実は皆さん既に御承知かと存じます。アンチ行為を繰返す人物は、暴力的な態度をとり・差別的な言葉を吐いてゐるのだから、異常人格者である事もよく知られてゐます。アンチ行為をとがめられて激昂した人物が、とがめたネット論客の人を講演会で刺殺した事件が先日ありました。さうしたアンチ旧かなの人の宣伝を、多くの人が鵜呑みにしてゐます。良識あるネット民の諸氏は、アンチの言葉を鵜呑みにするものでせうか。

閲覧者の方々には当サイトの記事を読み、或はSNS等で正かなづかひ使用者の発言を見るにあたつて、常に理性的・理知的に判断されますやう希望いたします。